科学の第一線でこの世の未知の解明に挑む研究者たちは、これまでどのような人生を歩み、どのようなことを考えてきたのか――。
そうした問いのもとに、研究者の内面に迫るインタビュー企画『Inventor’s Vision』。今回登場するのは、東京大学 先端科学技術研究センターの星野歩子さんです。星野さんは、エクソソーム研究で病気のメカニズム解明に取り組む第一人者。大学時代、友人が骨肉腫を患い、その闘病に深く衝撃を受けた経験が、研究の原点だといいます。基礎研究の成果を社会に還元することにこだわる星野さんの研究哲学と、その背景にあるライフストーリーに迫ります。
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「自分次第でどうにかなることに集中する」
現在に続く人生観が築かれたアメリカでの小学生時代
――エクソソームがさまざまな病態に関わる可能性の解明に挑む、星野さん。子どもの頃は、どんなことに興味関心を持っていましたか?
音楽が好きでした。特に小学生の頃は、クラリネットを演奏するのが大好きで。
実は私は、父の仕事の都合で、小学1年生の終わりから約6年間をアメリカ・ニューヨーク州とジョージア州で過ごしています。英語は全く話せなかったのですが、現地では日本人学校ではなく、アメリカで暮らす子どもたちが通う現地校で学んでいました。そのため、音符が読めれば演奏できるクラリネットが、ある意味で現地の学校になじむひとつの手段にもなっていたのです。
学校の授業で出会ったクラリネットの音に魅了されてからというもの、親に楽器を買ってもらって、小学生の間は学校のオーケストラやブラスバンドにも所属して演奏していました。自分の奏でたメロディがほかの楽器の音と混ざり合い、ダイナミックな広がりを生み出していくことに、楽しさを感じていたのを今でもよく覚えています。
――クラリネットは、今でも続けているのですか?
高校生までは続けていましたが、その後はバスケットボール部で活動するなど、音楽を続ける環境がなかったために、ほとんど手をつけられていませんでした。でも、またいつか演奏したいです。定年後は、現在住んでいる地域の市民オーケストラに参加しようと、ひそかに夢を描いています。
――小学生時代は、考え方や人格の基礎が築かれる重要な時期でもあるかと思います。そうした年頃にアメリカで過ごした経験は、星野さんの人生にどんな影響を与えているのでしょうか。
かなり大きな影響を与えていると思いますね。現地での生活には良い思い出もたくさんありますが、一方で大変だった記憶や、文化・考え方の違いに戸惑った経験も同じ数だけあります。
日本食ブームが来た今でこそ、さまざまな日本の料理が欧米でも認知されていますけれど、当時はまだ日本食は珍しく、学校の昼食用におにぎりを持って行っただけで驚かれる時代でした。クラスメートが話している内容はよく聞き取れませんでしたが、彼らが私のおにぎりに海苔が巻いてあるのを見て「うわっ、Ayukoが何か黒いものを食べている」というリアクションをするので、「ああ、引いているんだな」と分かるんです。母が作ってくれたおにぎりでしたが、子ども心にそういう反応を今後もされるのは嫌だなと感じて、それ以来、おにぎりをお弁当に持って行くのはやめました。
また、渡米したばかりの頃は、授業についていくのもやっとのことでした。例えば、日本の「国語」のような授業では、よくチーム対抗で辞書を引く速さを競うゲームに取り組んでいたのですが、私にとってはこのゲームの時間があまり楽しいものだとは思えませんでした。なぜなら、英語に慣れていなかった私は、辞書を引くのもかなり遅かったため、同じチームに割り当てられたクラスメートが、「今日はビリだ」「今日もまた居残りか」と皆そろってがっかりした表情と発言をするからです。
そうした経験を経て思ったのは、「自分の努力次第でどうにかできること以外は、必要以上に悩まない」ということでした。人の心は制御できません。自分にできることを精一杯やった後は、誰かの視線を気にしすぎても仕方がないのだなと悟ったのです。このスタンスは、今の私の中にも根づいています。
――昨今、 SNSの普及もあり、他人の意見に過敏になりやすい時代です。そんな中で「自分にコントロールできる範囲のことに集中しよう」という考え方が注目されていますが、その先駆けとなる考え方を、小学生の頃から持たれていたのですね。
ただ小学生時代は、ここまで明確な言語化はできていませんでした。自分の考え方やスタンスをしっかりと言葉にできたのは、高校生の頃です。当時、『ハムレット』の中にある「There is nothing either good or bad, but thinking makes it so.(ものの良し悪しは考え方ひとつで決まる。)」というセリフと出会いました。この言葉を見たとき、「まさにその通りだな」と納得したのが、自分のスタンスを言語化できたきっかけでした。
がんで亡くなる人を減らす研究を志したのは、友人の闘病がきっかけ
――理系分野への関心は、いつから抱き始めたのでしょうか。
高校1年生の頃です。アメリカ・ミシガン州の高校に留学したのですが、化学の授業で周期表を習ったとき、この世のありとあらゆるものが表の中にある元素で構成されていることを知って、いたく感動したのが大きなきっかけでした。
――それで、大学は東京理科大学理学部応用化学科に進まれたのですね。
そうなんです。大学では、有機化学や分析化学に興味を惹かれ、勉強を続けていました。
――前回のインタビューで、大学院では「がん」の研究をされていたと伺いました。「がん」を研究テーマに据えた背景には、どのようなエピソードがあったのでしょうか。
今でも忘れられない光景があるのですが、私が「がん」を研究テーマに掲げようと決めた原体験は、大学時代にあります。
当時、バスケットボールサークルの友人が、骨肉腫という骨のがんを患いました。友人は、闘病のために大病院へと入院することに。私は、何の気なしに、その友人のお見舞いに行くことにしました。その日、ちょうどお昼の時間と被ってしまったこともあって、あるファーストフードチェーンでハンバーガーとポテトを購入。それらをテイクアウトして、友人を含む数名の子どもが入院している大部屋の病室で、食事をしながら、友人と話に花を咲かせました。
でも、次第に周囲の様子がおかしいことに気がつきました。皆さんもご存知かと思いますが、ハンバーガーやポテトは、実はかなり強いにおいがします。しかも、病室にいる子どもたちは、闘病のためにずっとファーストフードを口にしていません。私が食べていたハンバーガーやポテトのにおいにつられて、付き添っていた親御さんに「僕もポテトを食べたい」と切実な声で訴えている声が聞こえてきたのです。
その言葉を聞いたとき、私の中に衝撃が走りました。自分の食べたいものを、食べたいときに食べられない闘病中の子どもたちの前で、あろうことかファーストフードを食べる姿を見せつけてしまった。まだ若かったとはいえ、なんて浅はかでひどい行動をしてしまったのだろうと、本当に心が痛くなり、恥ずかしくなりました。同時に、友人と同じ骨肉腫を患う子どもたちが、病室で付き添いのお母さんと共に懸命に闘病している姿もクリアに見えてきました。
その経験を通じて、「小児がん」や「不治の病」という言葉が持つ重みを思い知った私は、化学の知識とがんという病気が結びつき、どうにか化学的なバックグラウンドを活かして研究ができないかと思い至りました。私たち人間も、すべての構成要素が周期表内の元素でできています。もっと言えば、ほとんどの部分が酸素、炭素、水素、窒素という非常にシンプルな元素でできている。シンプルだからこそ複雑性の高さをはらむ一方で、科学の力を使えば、がんを無くすこともできるのではないかと、当時の私は思いました。それが、「がん」を研究テーマに据えることとなった始まりです。
研究者としての土台を築いたコーネル大学時代
――大学院は、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻に進まれています。
がんについてしっかりと勉強したいと思ったことから、国立がん研究センターで研究を行っている先生がいらっしゃった東京大学大学院への進学を決めました。研究室には臨床研究を行う医師が多く所属しており、がんの治療や闘病の実際のところについて深く知ることができ、私にとって本当に理想通りの環境でしたね。
――大学院を修了後、コーネル大学医学部小児科に行くことになったのはどうしてですか?
修士課程の2年生に上がる直前に、その後私の上司となる先生の研究発表を聞いたことが大きなきっかけです。
「がんを撲滅したい」と息まいて大学院に進んだのにも関わらず、当時の私はさまざまな種類のがんの存在や、それらの治療方法を確立するための研究内容について知るうちに、段々と「がんをなくす研究は実現しえないのかもしれない」と思うようになっていました。そんな時、コーネル大学からがんの転移のメカニズムを解明する研究などを行っている David Lyden先生が来ると知って、先生が登壇する会議にお手伝いとして参加することに。そこで私は、現在の研究内容ともつながる「前転移ニッチ」という概念や、がんは未来の転移先が決まっているという考え方に初めて触れ、感銘を受けました。実は骨肉腫を患った友人も、友人と病室が同じだった子どもの何人かも、全員が肺に転移し、病状が悪化していました。「がんの種類によって、将来転移する場所がある程度定まっている」という話は、まさにその通りだなと直感的に思ったのです。
未来の転移先が決まっているのなら、転移が起こらないようにしてあげれば、がんで亡くなる人を減らせるかもしれない。がん研究の未来に新たな希望を描けた私は、その発表が終わった後、先生のもとへ直行。コーネル大学で研究がしたいと、先生に話をしました。ただ、その頃はまだ博士課程にも進んでいなかったため、その場では先生の連絡先を聞いて話をおしまいに。その後も先生と定期的に連絡をとり続け、いよいよ博士課程を修了する段階になったとき、改めて連絡したところ、「君を待っていたよ」とコーネル大学への留学を快諾してもらうことができました。
――コーネル大学での研究生活は、いかがでしたか?
刺激的で、とても楽しかったです。良い意味で、毎日が“戦い”でした。戦うといっても、誰か敵となる人がいて、その人と争うという意味ではありません。いつ何時、どんなことが起こるか分からない日々だったので、常に“Ready”の状態でいたと言えば伝わるでしょうか。
現地では、出身地域や学年、研究歴に関係なく、会議などで発言することが求められました。また、急にプレゼンの機会をもらえることもしょっちゅうでした。自分の研究を進めながら、知識を蓄え、自分なりの意見や考えをまとめておく。そんなことを繰り返す日々を送っているうちに、研究者として必要な力を多面的に鍛えてもらったような気がします。
――そうしたアメリカでの経験は、星野さんの研究室運営にも活きているのでしょうか。
活きていますね。例えば、日本でもアメリカでも、アカデミアの世界で成功していくために必要なルートは明示されていませんし、そもそも“正解のルート”は誰にも分かりません。ですが、アメリカは日本と比べても、今の自分が達成すべき目標などを上司や先輩から指摘されることは多いように思います。そういった声かけがあることで、研究者は迷いながらも着実に前に進んでいけると感じました。私も何度も悩み、迷っては、上司のアドバイスに何度も助けられ、「自分は今、おおよそ良いルートを歩めているのだな」と安心して進んでくることができました。そうした経験をもとに、学生や研究員の皆さんにも、一定の羅針盤を提供できたらという思いでフィードバックを行うことは常に意識しています。
また、多様なメンバーが研究しやすい環境をつくることにも気を配っています。コーネル大学では、性別や国籍を問わず、本当に多彩なバックグラウンドを持った人たちが研究に勤しんでいました。豊かな多様性があるからこそ、生まれる研究がある。そう実感したことで、私の研究室でも研究歴や出身大学、年齢、性別、国籍を問わずさまざまな人がお互いに刺激を与えあえる環境でありたいと考えています。先日のSS-Fのイベントでも、「自分の枠の外から指摘されることで、気づきや成長が得られる」という話をしましたが、“自分の枠外から指摘や意見をもらい、新たな発見が得られる場所”を引き続きつくっていきたいと思っています。
――最後に、研究者とはどのような存在だと思うか、星野さんの考えをお聞かせください。
最近、研究者とは「橋をかける人」なのかもしれないと思うようになりました。こうした考えに至ったのは、6歳の娘の発言がきっかけ。先日、娘が研究者について「発明をする人でしょ?」と私に話しかけてきたのです。
たしかに、研究者には「社会に貢献する発明を行う」という側面があります。しかし、研究者の役割はそれだけにとどまりません。「新しい知を発見する」「学生など次世代の教育を担う」という役割もあります。各役割のどこに重きを置いて活動しているかで、研究者の姿は発明者、教育者、知的探求者など、見え方が大きく変わってきます。
そして、これらの役割はそれぞれ独立・対立するものではありません。むしろ、お互いが重なり合い、補い合う関係にあります。例えば、量子力学の分野における研究は、当初は理論的な探求が主でしたが、後にさまざまな研究者が編み出した理論がもとになって、半導体技術や情報科学の発展に結びついていきました。新たな知の発見は、長期目線で見れば新しい技術の開発につながり、それがひいては社会の発展に寄与する可能性も秘めているのです。
研究者の使命は、知と知、理論と実践、教育と研究、過去と未来の間をつなぎ、橋をかけることにある。そうした考え方に立てば、私の使命はやはり、研究を社会につなげていくことにあるのだと思います。友人が骨肉腫を患ったこと。私が研究者を志した原点とそのとき感じた想いを忘れずに、自分の研究がいつか臨床現場で実際に役立つ日が来ることを目指して、引き続き研究に挑んでいきたいと思います。
プロフィール
星野 歩子/Ayuko Hoshino
2011年東京大学大学院新領域創成科学研究科博士課程修了。8年半のWeill Cornell大学(米国)での研究生活にてポスドク、Research Associate、Instructorを経てAssistant Professorとなり、2019年4月より東京大学IRCNに講師として帰国。2020年3月に東京工業大学 生命理工学院 准教授としてラボを立ち上げた。2023年3月より東京大学先端科学技術研究センター・教授。
(取材・文/市岡光子、写真/関口佳代)
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