2024年8月22日から23日の2日間、Stellar Science Foundation (以下SS-F)の3回目のリトリートを開催いたしました。今回のレポートは、『山中伸弥先生に、人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社)、『認知症の新しい常識』(新潮新書)など、数々の科学技術に関する著書を手掛けられたサイエンスライターの緑慎也さんによる執筆です。 −−−−−
山岳鉄道の下をくぐり10分ほど急坂を上ると、観光客でごった返す箱根湯本駅前とは打って変わって静かな里山の中腹に、その建物はたたずんでいた。おもちゃミュージアムを改築した名残なのか、どこか楽しげな雰囲気が漂う「HAKONATURE BASE」が、第3回目のSS-Fリトリートの会場である。
対話から生まれる新たな視点
2人の若手研究者のプレゼンからリトリートの幕は開けた。口火を切ったのは、『SS-F インベンター・ブリッジ・プログラム』の支援を受け、東京大学の研究室にポストを得た、インド出身のサンダラム・アチャリヤさんだ。テーマは、新たなゲノム編集ツールの構造。これまであまり注目されなかった、とあるタイプのタンパク質を最先端のクライオ電子顕微鏡で調べ、その構造を明らかにしたところ、それが独特の機能を持ち、従来のものより正確かつ効率的に遺伝子を操作するゲノム編集ツールに改良できる可能性が見えてきたという。
もう1人は、次世代を担う若手研究者を支援する『SS-F ニュージェネレーション・プログラム』に選ばれた東北大学歯学研究科助教の佐々木晴香さん。グルタミン酸に反応する「うま味受容体」が舌の表面だけでなく気道にも存在し、喘息を引き起こすメカニズムに関わっていること、そして従来とは全く異なる方法でその症状を緩和できる可能性があることを語った。
今後の進展に期待が持てるユニークな研究内容だったが、プレゼン中、2人の緊張の面持ちがなかなか消えなかった。それもそのはず、日本を代表する研究者ら十数名の優しくも鋭い視線が彼らに注がれていたからである。国際的科学誌の元編集者はアチャリヤさんに「(新たなゲノム編集ツールを使ったターゲットとしてプレゼンで挙げられた)疾患の治療は技術的ハードルが高い。まずは小さなステップから始めても良いのではないか」とコメントし、現実的な目標となりそうな疾患の例を挙げ、アドバイス。細胞内のメッセンジャーとして重要な役割を果たしているGタンパク質の構造解析で知られる研究者は、佐々木さんに「うま味受容体と結合するGタンパク質について知りたい」と言い、さらなる研究を促した。
日本の多くの研究機関や大学は縦割りの構造になっているため、分野を超えた連携や情報共有が進みにくい現状がある。キャリアを重ねるにつれて、自分の分野以外の研究に触れる機会も減ってしまいがちだ。また、資金や時間の制約により、異分野交流の場に参加することが難しいという課題もある。SS-Fは、こうした状況を打破することを目標の一つに掲げる。
今回のリトリートは、まさにその課題を打破する場として、多彩な分野の研究者が集まった。特に、この2名の若手研究者にとって、さらなる研究の発展を促す貴重な機会になったに違いない。
ノーベル賞を終わらせる!?
「これがノーベル賞にピリオドを打つ唯一の方法です」
医療や生物学とAI技術の融合に取り組む研究者が、そう言うと会場がどよめいた。その「方法」とは次のようなものだ。強化学習と呼ばれるAI技術を組みこんだシステムが細胞生物学に関わる仮説を自ら立て、自ら実験し、自ら観察し、自ら検証する。知識ゼロからスタートするので最初の仮説は外ればかり。しかし毎週約3,000もの仮説を立てて同時に検証し、そこから学んで新たな仮説を立ててまた検証する作業をくり返すので、7週間も経てば、細胞に関しては大学院生並みの知識を獲得する。こうして仮想世界に誕生したAI=ノンヒューマンサイエンティストはリアルな実験をやめてシミュレーション実験で仮説立案と検証をくり返してゆく。すでにパイロット環境で、疲れ知らずのノンヒューマンサイエンティストが日夜働いているのだという。
「現実世界で何週間もかかる実験がシミュレーション実験なら0.1秒で終わる。人間はこのノンヒューマンサイエンティストに絶対勝てません。毎日ノーベル賞級の発見が何百と生まれる状況になればノーベル賞は意義を失います。自然科学の謎に対する答えは人間の外側にある。だからそれを発見するのが人間である必要はない。科学は人間の特権ではありません」
この研究者は2030年までにラボメンバーの半分をノンヒューマンサイエンティストに置きかえ、ラボミーティングをしたいという。SFめいているが、ChatGPTなどの急速なAIの進歩を見れば、あり得ないことはないとも思える。
職を奪われかねない現役研究者には耳の痛い話のはずだが、光遺伝学の研究で知られる研究者からは「新しい一分野を切り開いて新しい職を作るか、過去の一分野を終わらせるのが良いサイエンス。ノーベル賞を終わらせるのは後者の意味で良いサイエンスだと思う」とポジティブなコメントが寄せられた。今はまさに、科学を取りまく環境が大きな転換期を迎えていることを痛感した。
この様子は、冒頭のプレゼンに続いて行われた『ファイヤーサイド・チャット(Fireside Chat)』の一コマだ。『ファイヤーサイド・チャット』は、参加者の自由な発想や深い議論を引き出すため、格式張った会議的な要素を極力排し、まるで暖炉を囲んでいるかのようなカジュアルな雰囲気を作って行うパネルディスカッションのことである。
今回のリトリートでは、木製のフレームに支えられたミニマルなデザインのソファー、温かみのあるラグが居心地のいいリビングルームのような空間を演出していた。ソファーに2人の研究者が座り、それぞれ経歴や研究内容について簡単に紹介した後、モデレーターのSS-Fスタッフや聴衆との質疑応答がはじまる。一定の時間が過ぎると次の2人にバトンタッチする形式で、計6回のセッションが行われた。参加者たちの率直な意見、意外なアイデア、鋭い問題提起が実際の暖炉の代わりに会場を温めた。
参加者の多彩な研究分野
他にも議論を盛り上げたテーマがある。それを紹介する前に今回参加した研究者11人の研究内容を簡単に説明しておこう。
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- 人の進化の過程で失われた再生能力を復活させることによる医療、培養肉など。
- 細胞が出す小胞であるエクソソームの役割の解明、がん転移の予測、治療への応用など。
- レアイベント(地震、台風、酵素反応など)を効率的にサンプリングするアルゴリズム開発、ヒトオルガノイドなどから得られるデータを活用した個別化医療など。
- 脳が断片的な感覚入力から情報を統合し、物体の特徴を捉え、推論している仕組みの解明、精神疾患の治療を見据えた脳を操作するテクノロジーの開発など。
- 最先端の光学技術、流体技術、情報科学などを組みあわせた次世代バイオテクノロジーの開発など。
- 数学、計算科学、ビッグデータ分析、AIなどを活用した創薬プロセスの自動制御など。
- 医療データとAIによる疾患の予測、科学的発見をするAI(前出)など。
- 愛情ホルモンとして知られるオキシトシンが社会的興味・性的行動に与える影響、好奇心を生み出す脳の仕組みなど。
- 長寿哺乳類のハダカデバネズミのがん耐性、抗老化の仕組みの解明、ヒトの病気予防への応用など。
- 複雑なデータを可視化するツールの開発、テレビアニメをモチーフとしたリズムゲームで用いる楽曲の譜面制作の自動化など。
- 光受容体タンパク質などタンパク質の構造機能解析、光遺伝学ツールなど新規タンパク質の開発、磁場によって活性化されるタンパク質を用いた磁気遺伝学の開拓など。
バイオ系を中心に、いかにバラエティに富む研究者が集まっているかがお分かりいただけるだろう。
日本の研究環境を改善するには
今回の参加者には海外の大学や研究機関でポスドク、PIなどの立場で研究に従事した経験を持つ研究者が多かった。そのせいか、日本と海外の研究環境あるいは後進育成の考え方にどんな違いがあるかについて活発な議論が交わされた。
「アメリカの研究室には多様なバックグラウンドを持つ人々が集まっている。異なる視点からの意見交換により研究の幅が広がっていると感じた。帰国後、自分の研究室を立ち上げるにあたり、意識的に異分野の人材を受け入れている」
「日米でセミナーの数が全然違う。日本で大学院生だったときには年に5、6回のセミナーしかなかった。アメリカでは毎週10回は開催され、様々な研究機関や大学から招かれた講師が未発表のデータを交えて話をするから、最先端の情報に触れる機会が多い」
「海外だとセミナー後に講師と参加者数人との1 on 1(1対1)ミーティングの時間が30分程度ずつ用意されているから、じっくり議論ができる。ディナーも用意されており、親睦を深めることもできる。日本では予算の制限があるため、講師にセミナーで1時間話してもらうだけで精一杯で、ディナーもないので、交流の機会が少ない」
「アメリカでポスドクになったばかりの頃、研究室のボスからあなたは「ベイビー」だからいっぱい学びなさいと言われた。一方、日本だとポスドク前の博士課程の学生が『あなたがラボを回せ』と言われる。日本の博士課程の学生は背負わされている責任が大きすぎる」
「カリフォルニア大学バークレー校での大学院時代、自分には固定のメンターはいなかったが、その代わり、どの教授にも気軽に話を聞くことができた。ノックをして部屋に入ってくる学生を拒まない『ノックオンカルチャー』が根付いていた。自分の今の日本の研究室でいつでも学生の訪問を受け入れているのは、この経験があったから」
アメリカで生まれ育ち、日本の研究機関でポストを得た脳科学者からは「アメリカではトランスレーショナル(橋渡し)研究に焦点があてられがちで、すでに成果が出ている基礎研究を実用化する研究に助成を求めることが多い。それに対して、日本の素晴らしい点は新規性や好奇心に基づく研究が重視されているところだ」とのポジティブなコメントもあった。
だが、どちらかといえば日本では自由な発想に基づく研究をしにくいと感じる人も多く、「革新的な研究を評価できる人がいない」「短期間で目に見える成果を求める傾向があり、時間をかけてじっくり取り組む必要がある挑戦的な研究は評価されにくい」などの声も上がった。
今回SS-Fのサポーター企業として参加した研究者によれば、「良い研究テーマとは何か、どのようにアイデアを創発するかを研究する」部署を2年前に立ち上げたという。アカデミアにいる研究者と同様、企業にとっても、研究環境の改善が重要なテーマなのだ。海外との違いを踏まえながら、日本独自の研究文化を作る試みが、今まさに必要とされているのではないか。
ファウンダー、あるいは「シンガー?」体験
リトリートの2日目には『サイエンティフィック・ファウンダー・エクスペリエンス(Scientific Founder Experience)』が開催された。これは、エレベーターに乗っているくらいの短い時間で投資家やビジネスパートナーにアイデアを効果的に伝えるエレベーターピッチを想定したセッションである。参加者は4グループに分かれ、「(ビジネスプランの基になる)科学的な発見とは何か? どこがユニークなのか?」「その発見にどんなインパクトがあるのか? 人々の生活にどんな影響を与えるのか?」「(起業するにあたり)どんな困難があるか? どのように克服できるか?」をそれぞれ考え、最後に2分間のピッチを行う、という流れでセッションは進んだ。
各グループとも最も議論が白熱したのは最初の課題、すなわちビジネスプランの中核に据える科学的成果を決めるプロセスだった。こんな科学的成果がある、こんなアイデアがあるとネタが挙げられるが、こんな難点がある、あんな障壁があると矢継ぎ早に指摘が入る。それに対し、いや、こうすればその難点を回避できる、この機能を加えれば克服できると解決策も次々と飛び出す。
研究者とビジネスパーソンの間で、白熱したディスカッションが飛び交う 4グループはそれぞれ2分間のピッチの中で、以下のようなビジネスプランを発表した。
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- ミニ臓器テクノロジー: 体内の重要な機能をサポートする小さな臓器を培養し、個々の健康状態に応じて利用する技術。また、皮膚に貼ることで装飾としても楽しめる。
- カスタマイズ住宅: 健康長寿の研究成果を基に、温度や湿度などを個別に調整し、住人に最適な環境を提供する住宅技術。
- 磁気治療: 磁気を利用してがん細胞を診断・治療する技術で、低コストかつ高精度な手法。
- メンタルヘルスAI: ゲームプレイデータを解析し、ユーザーの精神状態をモニタリングし改善を促す技術。
いずれも短時間でひねり出されたとは思えないほど、将来性を感じるビジネスプランである。この中で特に印象的だったのがカスタマイズ住宅だった。それぞれのグループのメンバーには、研究者に交じってSS-Fのパートナー企業2社からの参加者が含まれていたが、それぞれの強み、具体的には不動産業のディベロッパー的視点や、総合ITベンダーのAI技術を活用することでビジネスプランに現実味が増し、花開く可能性が見えたからだ。
こうして2日間にわたるリトリートは幕を閉じた。
「目標もなく、義務もないフリーな状態で、異なるタイプの専門家と議論すると、何かが生まれる」
これはSS-F代表の武部貴則さんの1日目の挨拶中の発言だが、ちょっとした気付きから共同研究のきっかけ、ビジネスプランの種など様々なものが生まれたリトリートだった。
最後に一つ付け加えておきたいのは、宿泊先のホテルでディナー後に宴会場で行われたカラオケ大会のことだ。「誰か歌いませんか」とSS-Fスタッフに促されてしばらく手を挙げる人がいない中、口火を切ったのはプレゼンでも最初に話したアチャリヤさんだった。日本語を勉強中であるという彼が歌ったのは坂本九の「上を向いて歩こう」。顔に緊張の色はもはやなく、堂々と歌い上げると、他の参加者の緊張も解かれたのか、我も我もと後に続いた。
【取材・文:緑 慎也】