2025年1月20日、約400年の歴史を持つと言われる日本庭園の一角にたたずむ数寄屋造りの邸宅に近づくと、入り口に掲げられた大きな青い暖簾に縦書きされた「ようこそ」の文字が目に入った。アメリカからはるばる足を運んできた新しい仲間たちに対する「おもてなし」の気持ちを表しているのだろうと思われた。
SS-Fの「新しい仲間」とはチャン・ザッカーバーグ・イニシアティブ(Chan Zuckerberg Initiative(CZI))のことである。CZIはMeta(旧: Facebook)創業者マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)と妻プリシラ・チャン(Priscilla Chan)によって2015年に設立された。教育、科学などの分野に投資し、特にバイオサイエンスや健康分野の課題解決に向けた研究の推進に力を入れている慈善団体である。
2025年1月20日、SS-Fとチャン・ザッカーバーグ・バイオハブ・ネットワーク※1(Chan Zuckerberg Biohub Network(CZ Biohub Network))が共同で立ち上げた「グローバル・サイエンス・スカラーズ・プログラム(Global Science Scholars Program)※2」の発足を記念して、「SS-F Symposium: Building Bridges in the Global Scientific Community in partnership with CZI(世界の科学コミュニティをつなぐSS-Fシンポジウム)」が開催された。会場となった東京・白金台の八芳園・白鳳館には日米の研究者、政府関係者、スタートアップ関係者、学生、そしてGlobal Science Scholars プログラムの対象となるポスドクたちが集まり、オンライン参加者を含め200人以上が参加した。
※1 CZ Biohub NetworkはCZIが設立・運営を行う非営利研究機関。
※2 グローバル・サイエンス・スカラーズ・プログラムの日本側は内閣府が出資、SS-Fが運営しており、米国側はCZIによる出資及び運営。
グローバル・スタートアップ・キャンパス構想でイノベーションを加速
冒頭の挨拶でSS-F共同創業者の苔口 穂高氏は科学の未来は「人、コミュニティ、コラボレーション」によって形作られるとし、」、SS-Fのミッションである「発明と革新を促進し、人間中心の科学エコシステムを構築すること」を強調した。SS-Fは、異分野の研究者がつながり、知識を共有し、社会に影響を与える画期的な研究を推進することを目指し、実践的な支援やリトリートなどの機会を通じて、新たなコラボレーションの機会を創出している。今回のSS-Fシンポジウムは、その理念を体現し、国境を超えた科学のネットワークを広げる場として開催された。特に、偶然の出会い(Serendipity)が画期的な発見を生むことを重視し、日本と海外の研究者、政策関係者、スタートアップが直接対話し、共に新しい未来を築く機会を提供することを目的としていると語った。

SS-F Co-Founder 苔口 穂高
続いて、内閣官房グローバル・スタートアップ・キャンパス構想推進室参事官の柿澤 雄二氏が登壇。「日本のスタートアップの数と投資額は増加しているが、米国やシンガポール、韓国と比較すると依然として小規模である」と現状を説明した。博士号取得者数の減少や、スタートアップのCEOとして博士号取得者が少ないことなどの課題を挙げ、「グローバル・スタートアップ・キャンパス構想」により、ディープテックの研究開発支援や人材育成を国として進めていくことを紹介した。そして、この構想のパイロットプロジェクトとして、今回のSS-FとCZIによる「Global Science Scholarsプログラム」が位置づけられている。

内閣官房グローバル・スタートアップ・キャンパス構想推進室参事官 柿澤 雄二氏
あらゆる病気の治療を実現する方法
基調講演では、CZI科学部門責任者(Head of Science)でスタンフォード大学教授のStephen Quake氏が「Accelerating Scientific Discovery at the Chan Zuckerberg Initiative(CZIにおける科学的発見の加速)」と題し、科学研究の未来について語った。同氏は、科学への貢献は多岐にわたり、生体集積回路の発明、全生物細胞アトラスの開発、そして羊水検査のような侵襲的な生体検査を不要にする血液検査技術の開発 など、医療の安全性を飛躍的に向上させる画期的な研究を数多く手掛けてきた研究者として知られる。
Quake氏は、CZIがミッションとして「2100年までにすべての病気を治療、予防、管理できるようにすること」を掲げていることを説明した。いかにも野心的な目標であり、同氏も「途方もなく不可能のように聞こえるかもしれない」と認める。いかにしてこの遠大な目標に取り組むのか。同氏はCZIが採用している3本柱の戦略「BUILD(構築)」「FUND(資金提供)」「DO(実践)」を紹介した。
「BUILD」では、科学者の研究を効率化するためのツール開発に注力。その代表的な取り組みのひとつが、科学者が遺伝子や細胞データを容易に活用できるオープンソースのデータベース「CZ CELL by GENE」だ。これにより、研究者は1億以上の細胞データを探索し、新たな発見を得ることが可能になる。さらに、AIを活用して「データから知識へ(From Data to Knowledge)」という変革を推進している。また、アクセシビリティの重要性を強調し、「あなたは遺伝学の専門家である必要はありません。Webにアクセスすれば、知りたい細胞や遺伝子発現により何が起こっているのかを理解するのに役立つあらゆるツールを利用できる」という。
「FUND」の取り組みとして、CZIは34カ国以上で革新的な科学研究に助成金を提供するなど世界各地で積極的な資金援助を行っている。特に注力しているのが基礎科学への長期的な投資だ。「多くの医学的ブレイクスルーは基礎科学から生まれる」とし、実際に近年承認された画期的新薬の多くが30年以上前の基礎研究に端を発していることを例に挙げた。
「DO」ではCZI自ら研究機関を設立・運営している。その代表例がCZ Biohub Networkである。従来の研究環境では実現できない先駆的な科学を推進する研究機関を支援し、学術の枠を超えたコラボレーション が大規模な科学課題の解決に不可欠であると述べ、特に以下のような取り組みを強調した。
- 最先端のイメージング技術を用いた、生きた細胞の動態の観察
- 組織をモニタリングした、多くの疾患の根本要因となる炎症のメカニズムの解明
- 免疫システムを活用した、病気の早期発見・予防・治療の実現
AI活用にも積極的で、「Virtual Cell(仮想細胞)」プロジェクトでは細胞の仮想モデルを構築し、病気解明や新薬開発を目指している。Quake氏は「生物学の研究は今後計算中心になる」と述べ、従来の実験主体のアプローチからの転換を予見した。

CZI 科学部門責任者 Stephen Quake氏
幹細胞老化の謎に迫る
基調講演の2人目、東京大学医科学研究所教授の西村 栄美氏は「私たちは今、超高齢少子化社会に生きている。このままでは10年、15年後には介護人材の需要が供給を上回り、深刻な人手不足に陥る。私の近い将来、そして東京や他の先進国の人々に何が起こるのか本気で心配している」と切り出し、「幹細胞の老化と健康長寿への応用」に関する研究を紹介した。
西村氏らが注目しているのは皮膚の老化だ。外見は老化の重要なバイオマーカーであり、デンマークの双子のコホート研究によれば、見た目の年齢と寿命との相関性が示されたという。
西村氏は博士課程時代にメラノサイトの発生に関する研究に携わった。メラノサイトとは紫外線から体を保護する働きのあるメラニン色素を作る特殊な細胞である。主に皮膚、毛髪、虹彩、内耳などに存在するが、同氏は毛包の膨らんだ部分(バルジ領域)に、それまで知られていなかった未分化なメラノサイト幹細胞(McSCs)を発見。McSCsが成長期の毛包において成熟したメラノサイトへと分化し、毛髪の色素を供給していることを明らかにした。
これをきっかけに「幹細胞の運命決定」に強い関心を抱き、「幹細胞が老化によりどのように機能を失うのか」「老化した幹細胞はどのように組織から排除されるのか」などをテーマに探求を続けてきたという。講演ではMcSCsの他、老化の仕組みに関する様々な研究成果が紹介され、「国際的な共同研究とスタートアップとの協力が健康寿命の延伸に不可欠である」と強調した。

東京大学医科学研究所教授 西村 栄美氏
生命の発生から夢を見るタコまで ー ライジング・スター研究者たちの挑戦
続いて、Global Science Scholars プログラムでホスト研究室となっている、新進気鋭の研究者4人によるLightning Talksのセッションに移った。彼ら/ 彼女らに与えられた講演時間はわずか5分だが、それぞれ自らの研究に対する情熱と成果を簡潔かつ力強く伝えた。
最初に登壇した 入江 奈緒子氏(実中研バイオイメージングセンター代謝システム研究室 室長)は幹細胞を用いた生殖医療に関する基礎研究に取り組み、特に生殖細胞系列がいかに制御されているかに焦点を当てている。「不死の系列(immortal line)である生殖細胞系列の制御機構について説明し、幹細胞が生殖細胞へと分化する過程と、その過程における癌化の可能性についての研究を紹介。「生命の起源と人類の未来に関わるロマンチックな研究」だと語った。

実中研バイオイメージングセンター代謝システム研究室 室長 入江 奈緒子氏
続いて登壇した林 悠氏(東京大学教授)の研究テーマは「なぜ人は眠るのか」。睡眠が脳の発達や老化に与える影響を調べているが、特に注目しているのはREM睡眠の役割だという。林氏はその機能を解明するために、睡眠と脳機能の関係性を多角的に検証する研究を進めている。

東京大学大学院理学系研究科教授 林 悠氏
3人目のスピーカーは、星野 歩子氏(東京大学教授)だ。星野氏はエクソソームと呼ばれる細胞分泌小胞に注目し、その役割や、がん、うつ病、自閉症スペクトラム障害、統合失調症、妊娠高血圧症など様々な疾患のバイオマーカーとして、あるいは治療法として活用する方法を探っている。またポスドクとして留学中にカルチャーショックを受けた経験を紹介し、「自分と異なる視点・考え方をする人たちがいる環境に身を置くことが重要だ」と語った。

東京大学先端科学技術研究センター教授 星野 歩子氏
4人目のスピーカーとして登壇したSam Reiter氏(沖縄科学技術大学院(OIST)准教授)は、沖縄周辺に生息する頭足類(イカやタコ)を用いて、行動の神経基盤を研究している。特に注目しているのがタコの複雑な睡眠パターンだ。Reiter氏はタコの睡眠中に変化する皮膚のパターンが覚醒中の皮膚の変化のパターンと類似していることを発見。タコにも哺乳類のREM睡眠に似た睡眠モードがあると考えられ、「タコが夢を見ている可能性がある」という。5億年前に脊椎動物と分化し、独立して進化してきた頭足類においてもREM睡眠と同様の睡眠モードがあることは、これが動物の脳の一般原理である可能性があるという。

OIST准教授 Sam Reiter氏

ショートトークセッション登壇PIの方々((左から)星野氏、入江氏、Reiter氏、林氏)
困難を乗り越える鍵は知のネットワーク
オンライン配信の休憩時間に、現地会場で参加者等の交流が行われたのち、SS-Fシンポジウム最後のプログラムとしてパネルディスカッション「科学的起業家精神とグローバルイノベーションの加速(Accelerating Scientific Entrepreneurship and Global Innovation)」が行われた。パネリストには、CZ Biohub Network副代表で、カリフォルニア大学バークレー校教授のAmy E. Herr氏、理化学研究所生命医科学研究センター統合ゲノミクス研究チーム・情報統合本部医療データ深層学習チームなどを率いる清田 純氏、個人向け遺伝子解析サービスを提供するジーンクエストや不老長寿バイオテックのTazを創業した起業家で、生命科学研究者の高橋 祥子氏がパネリストとして登壇した。モデレーターには、この日のはじめから司会進行を務めたSS-FのRaeka Aiyar氏である。

パネルディスカッション登壇者の方々((左から)Herr氏、清田氏、高橋氏、Aiyar氏)
Aiyar氏はまず「科学的発見をイノベーションに変え、市場に送り出すまでの道のりは険しい。科学者はこれまで論文を発表し、資金を得る方法については教えられてきた。しかし、起業までの困難な道を前進するのに必要なツールを備えてはいない。一方、科学的発見をイノベーションに変える前提として、各国、各分野に固有の障害が依然として残っていることを認識する必要がある」と科学者たちが克服すべき課題を提示し、パネリストに自身の経験や見解の共有を促した。

モデレーター・司会を勤めたRaeka Aiyar氏(SS-F)
起業の環境と課題①
高橋 祥子氏は、日本の科学スタートアップの大きな課題としてベンチャーキャピタルの不足があるという。特に、科学技術系のスタートアップに対する投資は、米国に比べて大きく遅れており、技術の評価ができる投資家の存在が不足していると述べた。また、日本では博士号取得者が起業するケースが少なく、大学や研究機関とビジネスの距離が遠いことも課題として挙げられた。
起業の環境と課題②
清田 純氏は、スタートアップを成功させるには、技術移転やビジネス開発に長けた専門家が不可欠であると指摘。現在の日本のアカデミックスタートアップは、起業を促進する仕組みが整っておらず、技術移転の専門家やビジネスディベロップメントの支援が求められると述べた。
起業の環境と課題③
その他、日本と米国のリスク許容度の違いについてもディスカッションが行われた。米国では、失敗を前提とした投資文化があり、起業に失敗したとしても、再挑戦できる環境が整っている。一方で、日本では、一度の失敗がキャリアに大きく影響する風潮があり、リスクを取ることをためらう研究者が多い。この文化を変えることが、日本のスタートアップエコシステムの発展には重要であるといった意見も出た。

理研 チームリーダー 清田 純氏
スタートアップ成功に必要な要素とは
Herr氏は、米国のスタートアップ環境について触れ、成功のカギは「起業家のネットワークと継続的な支援体制」にあると語った。特に、スタートアップの成功は単なる技術力ではなく、適切なメンター、資金調達の機会、ネットワークの活用が不可欠であると強調した。また、Herr氏は、今回の来日でいくつかの研究室を訪問し、日本の研究者の起業を見据えた「生々しい野心」を目の当たりにし、グローバル・イノベーションの成功には「その野心と国際的な協力をいかに結びつけるかが重要だ」と述べた。
また、ディスカッションの終盤では、高橋氏が「元々起業家になるつもりはなかったが、同じ研究室に起業経験のある先輩研究者と議論して決断した」と自身の経験を振り返り、創業者やメンターとつながることの重要性、さらに「科学者はすべてを自分でやる必要はなく、むしろ自分の不得意なことを認識し、それを補完できる人材とチームを作ることが大切だ」とチームを組むことの意義を指摘した。清田氏は、今回のSS-FとCZ Biohub Networkとの提携を踏まえ、「必ずしも日本だけから人材を集めるのではなく、アメリカなどグローバルな人材プールを活用すべきだ」と提案した。
Herr氏も、CZ Biohub Networkの活動を通じて知り合った人々の「実に99%がいつも素晴らしいアイデアとコネクションを提供してくれた」とネットワークを構築することの重要性を強調した。イノベーションは個人の力だけでなく、強固なネットワークと協力の上に成り立つものなのだ。

CZ Biohub Network 副代表 Amy.E.Herr氏
イベントを終えて
シンポジウムは終わったが、現地会場ではネットワーキングセッションが続き、多くの参加者が残って活発に交流を深めた。特に起業や国際的コラボレーションに関心を持つ若手研究者たちは、講演者やパネリストに積極的に声をかけ、質問し、自らの研究やアイデアを語ったりしている様子がうかがえた。新たな連携の種がいくつも芽吹き始めたのではないだろうか。国境や専門分野を超えた交流の中からイノベーションが生まれることを期待しながら参加者たちはそれぞれ次なる挑戦へと向っていった。
【取材・執筆】緑 慎也、【写真】関口 佳代