一つの研究が、未来を大きく変えるかもしれない──。世界には、まだ知られていない大きな可能性を秘めた研究が数多く存在します。「科学の力で、世界を前に進める。」を掲げるStellar Science Foundation(SS-F)は、科学研究の本質を追求し、その力をさらに大きく飛躍させることに挑戦しています。
連載「Invent Innovation」では、研究者へのインタビューを通じて、世界を前に進める「革新(Innovation)」を可能にする鍵となる知を「発明(Invent)」している研究に焦点を当てます。革新的な知を生み出す背景やプロセスに迫り、研究内容そのものが持つ可能性とその影響力を深掘りしてお届けします。
第2回でお話を伺ったのは、「Human Germ line(生殖細胞や卵、精子、初期胚の発生段階)」などの研究を通して、生命の謎に迫る入江奈緒子(いりえ なおこ)さんです。2024年12月には、ヒト生殖細胞初期発生に関する研究の功績が評価され、日本学術振興会賞を受賞。体外受精などの治療を行う生殖補助医療への活用や、生殖に関する技術発展への貢献など、さまざまな可能性を秘めた研究として注目を集めています。
入江さんは「人間の遺伝情報を伝える『生殖細胞』はいつ、どのようにして発生するのか?」という大きな問いと向き合ってきました。中でも、研究活動に取り組む中で、「直感」に導かれてたどり着いた「鳥肌が立った予想外の発見」があったといいます。
自身の研究を通して「悩んでいる人たちがより多くの選択肢を持てる世界にしたい」と語る入江さんは、「生殖細胞」という、私たちの「始まり」である大きな謎にどのように取り組んできたのでしょうか?
「世代を超えた生命の連続性」の謎を解き明かす
──はじめに、入江さんが研究の対象にされている「Human Germ line(ヒューマンジャームライン)」とはどのようなものなのか、簡単に教えていただけますか?
一言でいえば「ヒトの生殖ライン」のことです。ここでいう「生殖」とは「生殖細胞」のことで、ヒトでいえば卵や精子のことを指します。そして「生殖ライン」は、「世代を超えた生命の連続性」といった意味を含む概念です。
ヒトはおよそ37兆個の細胞からつくられていると言われていますが、それら全てはたった2種類に分けることができます。
生殖細胞と、生殖細胞以外です。私たちは、両親のその生殖細胞から形づくられ誕生しています。そして両親もまた、それぞれの親の生殖細胞から形づくられ誕生しました。
つまり赤ちゃんから老人まで、世の中すべての世代が「生殖ライン」を通じて成り立っているのです。このように、生殖細胞によって遺伝情報が伝えられ、次世代がつくられていくこと自体を「生殖ライン」と言います。
──Human Germ Lineとは、ヒトの遺伝情報を伝えるために、生殖細胞が次の世代へ受け継がれるメカニズムのようなものを指すのですね。
そうです。ヒトだけでなく、植物や動物など、遡れば全ての生き物が同じ一つの生命の起源に行きつくと考えられています。その起源から始まり、やがてさまざまな「生殖ライン」が生まれて、最終的に今あるような生き物の多様性が育まれたというわけです。
──そうしたHuman Germ Lineについて、入江さんはどのような手法やアプローチで研究しているのでしょうか?
ヒトの「多能性幹細胞」を用いて研究しています。ヒトの多能性幹細胞には、受精卵から少しだけ発生したごく初期の胚に含まれる細胞を培養した「ES細胞」と、体細胞に遺伝子を導入して人工的に樹立した「iPS細胞」の二種類がありますが、私たちが特に用いるのは前者のES細胞です。
かつてはマウスの細胞を用いた研究が主流でしたが、ES細胞をヒトの細胞から樹立したことが1998年にアメリカで報告されて以降、ヒトのES細胞が使われるようになりました。ES細胞は受精して4日後くらいに、子宮にくっつく直前のタイミングの胚から樹立される細胞です。ES細胞を観察することで、ヒトの身体において生殖細胞が発生する段階を研究できます。
ES細胞には、培養するための技術があります。お皿に細胞を貼り付け、餌の役割を果たす培地を与えて、毎日経過を観察します。培地を交換していくのが、毎日のお世話の基本になります。しばらくするとコロニー(定住範囲)が整ってくるのですが、そのコロニーを細かく分割することで、最終的にはES細胞の増加につなげる。こうした一連の作業もまた、研究において必要なプロセスの一つになります。

図: 入江 奈緒子さん作成
実は腸より前につくられる?「生殖細胞」という大きな謎
──そうした研究活動を通して、入江さんはどのような問いに向き合ってきたのでしょうか?
研究を始めた当初から根底にあったのは、「生殖細胞が一番最初に発生する瞬間を捉えたい」という想いでした。
ヒトの生殖細胞が発生するのは、受精して約3週間ほどの段階です。しかしこの段階で、胎児には卵巣や精巣がまだありません。それどころか、ヒトの形からも遠い状態にあります。つまり、卵や精子になるヒトの生殖細胞は、卵巣や精巣ができる前の段階で既につくられているのです。
受精すると、母体の中で胎児の身体が徐々につくられていきます。最初の細胞である受精卵から始まり、それが細胞分裂を繰り返すことでつくられていく。大きく分けて、胎盤になる細胞と身体になる細胞があり、腸管ができて、頭のほうに脳ができて、手足が生えて……大まかにはそうしたプロセスをたどるわけですが、実は腸管がつくられる前には、すでに生殖細胞ができているのです。
人間のメカニズムとして、生殖は非常に特殊な機能。だからこそ身体の部分よりも先に、非常に大事につくられるのだと考えられます。
──つまり入江さんは精子や卵、さらに言えばヒトが生まれる出発点について、それらがどのように生まれてくるのか?を研究している、と。
はい。ただ私が研究を本格的に始めた時は、生殖細胞の発生段階を観察するために必要な細胞実験/細胞培養自体が存在しませんでした。実験に用いる細胞培養を用意するために、ES細胞から生殖細胞に分化誘導する研究基盤をつくるところから、私の研究活動はスタートしました。
──Human Germ Lineの研究自体には、どれほどの歴史があるのでしょうか。
生殖細胞や受精についての研究でいえば、哺乳類に関しては1980年代くらいからジェネティクス(遺伝子操作)技術が発展し、それと共に研究が進行してきました。マウスを用いた生殖細胞の発生については1950年代には発見されており、その後、80年代頃からより詳細に研究されてきています。
そのうえで、マウスとヒトでは違いがあるかもしれないという可能性に目を向けて私が取り組み始めたのが、先ほどお話したヒトES細胞を使った研究です。その研究成果を2015年の論文「SOX17 is a critical specifier of human primordial germ cell fate. 」で発表しました。
もちろん、まだまだ未知のことはたくさんあります。たとえば、ヒトの生殖ラインは最初に(卵や精子の大元の)始原生殖細胞ができて、その後卵や精子が思春期に機能するようになり、受精して細胞の発生が進み、また新しい世代でも生殖細胞ができて……という繰り返しによって、連続していきます。ただ生殖細胞が実際にいつ、どこで、どのように発生するかなど、特に発生段階においては未だわからないことばかりです。
それらを明らかにするには、受精から2週間ほどの人の胚を観察する必要がありますが、実際には倫理的、技術的な観点から研究に用いることができません。そうした難しさもあって、解明されていないことが数多くあるのです。
鳥肌が立った予想外の発見──生殖細胞発生の“カギ”とは?
──「この段階で生殖細胞ができる」という点に関してはわからないことがたくさんある、と。
はい。ヒトの初期発生段階の研究はこの分野で最も難しいことの一つであり、「ブラックボックス」とも呼ばれている領域です。胚盤胞(受精卵が受精後5~6日目に成長した状態)までなら体外受精で再現できますが、それ以降にあたる着床後から胎児になる過程については、ほとんどサンプルも知見もありません。未知に包まれた、まさにブラックボックスの状態です。
そのブラックボックスを明らかにするために、かつてはマウスを用いた研究が盛んに行われていました。その結果が、ヒトと類似していると考えられてきたのです。
ただ、先ほど触れた2015年の論文で発表したように、ヒトES細胞や胎児のサンプルを使って解析したところ、マウスとヒトとでは生殖ラインの発生に大きな違いがあることがわかりました。
──その2015年の論文では、ヒト生殖細胞を作成できたことが一つの大きな研究成果とされています。なぜそれが革新的だと言えるのか、詳しくお話しいただけますか?
大きかったのは、ヒトの生殖細胞発生の瞬間を実験系で再現した点です。それまで、多能性幹細胞からあらゆる組織や臓器に分化させるプロトコルが開発されてきましたが、生殖ラインへの誘導は非常に難しいとされていました。私が論文を発表する4年前には「マウスでES細胞から生殖細胞ができた」という研究成果が発表され、ヒトでもできるかが注目されていました。そうした経緯がある中で発表したのが、2015年の研究成果です。
そしてもう一つ大きかったのは、その誘導系を確立したことによって、分子メカニズムを研究できるようになった点です。その結果、ヒトの生殖細胞の発生において「SOX17」という転写因子が非常に大事な役割を果たすことを明らかにできました。「SOX17」は、2015年の論文のタイトルにもなっています。
──どのようにして「SOX17」の重要性を解明できたのでしょうか?
私自身の直感も大きく影響していたかもしれません。実は「SOX17」は、マウスの研究においては生殖細胞の発生に必要ないという報告がされていた転写因子でした。おそらくマウスモデルで研究をしていた人たちはヒトの生殖細胞でみられる「SOX17」は、異常なもの、何かのエラーで起きたものとみなして、敬遠されていたのかもしれません。私はその事実を知ったうえで、どこか「SOX17」に惹かれるところがありました。
──「直感」に大きく導かれた発見だったのですね!
生殖細胞実験系確立の研究と並行して、遺伝子の発現を確かめる研究も同時並行で行っていたのですが、その遺伝子リストを調べる作業をする際はいつも、こっそり「SOX17」の観察もしていたのです。毎回興味深い挙動を示すので追いかけていたら、最終的に生殖細胞の発生に決定的な因子だとわかった。これは、本当に予想外で、わかったときには鳥肌が立ったのを覚えています。
高まる「研究倫理」の重要性
──鳥肌が立ったとおっしゃいましたが、たしかにここまでのお話を聞いて、入江さんの研究はまさに人間や生命の根幹に関わるものだと感じました。
そうかもしれません。生殖ラインの研究は「不死」や「若返り」といったテーマにも通底するものがあります。
たとえば、当たり前の話ですが、成人のお母さんとお父さんから子供が生まれたとしても、その子供は成人ではなく0歳ですよね。これは実はとても不思議なことで、歳をとったはずの母親の細胞が、受精卵の段階では「0」から始まっているわけです。つまり、年を重ねた人間の細胞のうち、生殖細胞は最初の状態に戻れる、つまり若返ることで死なずに生き続ける不死の能力を持っていることを示唆しています。
生命の最初はどこにあるのか。そうした問題とも絡む、非常にロマンがあって魅力的な領域だと感じています。
──ただ一方で、生殖をめぐる研究は、非常にセンシティブで研究倫理がいっそう重要な領域でもあります。
おっしゃる通りで、私も生殖の研究に携わる研究者の一人として、常に責任感を持って考えなければならないことだと思っています。
テクノロジーが進歩し、生殖細胞を誘導する技術もさらに発展すれば、さまざまな未来が考えられます。たとえば、皮膚からiPS細胞をつくり、そこから卵や精子をつくれるといった報道も出ています。他にも、たとえばすれ違った人が有名人の髪の毛を拾って勝手に精子や卵子をつくって子どもを産む、あるいは特定の人の遺伝子を使って何千万人も同じような人間を生み出す、遺伝子操作の技術を使って見た目や能力を自由にデザインする……といったSFのような話にまで発展したりしています。
世界中でこうした研究の競争が進むのは、大きく見れば避けがたいことです。だからこそ、倫理観のある国や良識ある研究者が先導して、明確なルールをつくりながら技術を発展させていく。そうした歩みが重要だと思っています。
──国ごとに規制が異なってくると、規制が緩和されている国に研究者たちが集合してしまう危険性もありそうです。
そうですね。たとえば日本や欧米がこのような研究を全面禁止にしてしまうと、他の国に優秀な研究者が集まってしまい、結果として研究のモラルが揺らぐ可能性も出てきます。
実際に、研究費が潤沢に用意された場所に優秀な研究者たちが集まり、通常入手困難な生体サンプルなどを用いて、質の高い研究成果を素早く発表する例も増えてきているように感じます。そうした事実や危険性も踏まえて、急速な技術発展に対応した研究支援の仕組みを整備していく必要があると思います。
研究の性質をよく理解した上で、許可範囲を明確に定めながら、研究や技術の発展をコントロールしていくことが重要だと思います。
出産に悩む人たちが、より多くの選択肢を持てる社会へ
──ここまでのお話も踏まえ、入江さんはご自身の研究をどのような形で社会の発展に結びつけたいと考えていますか?
生殖にまつわるセンシティブな印象が少しでも軽減され、日々の生活の中でより充実した生殖補助医療を考えられる社会になってほしいと思っています。
体外受精などの治療を行う生殖補助医療は、かつては社会から批判を受けたこともありました。でも今では、その技術で幸せになっている人がいるのも事実です。生殖に関する技術の発展に貢献し、出産などで悩んでいる人たちがより多くの選択肢を持てるように。誰かの幸福に少しでもつなげられるように、これからも研究を続けていきたいです。
──そのために、特に直近でチャレンジしたいと考えていることはありますか?
今までは、生殖細胞が発生する一番最初の段階と、その後生殖巣に入るくらいまでの段階を中心に研究してきました。今後は、それらよりさらに先の段階にも踏み込んだ研究がしたいです。さらに、受精から生殖細胞ができる直前の段階までのプロセスにも着目し、比較解析を通して、生殖ラインの謎をより明らかにしたいと考えています。
また、生殖細胞は死なない細胞、若返りが可能な細胞だとも思っているのですが、同じく体内で不死化する「がん細胞」と比較すると、特殊な遺伝子発現について似ている部分があります。それぞれを比較しながら不死性や若返り、逆に生殖細胞以外が老化して死んでしまう仕組みなどを対比させ、生命が連続していく謎を解明したいですね。
(文:栗村智弘 写真:関口佳代 聞き手・編集:小池真幸)