「科学の力で、世界を前に進める。」を掲げ、科学研究の本質を追求し、その力を飛躍的に高めることに挑むStellar Science Foundation(SS-F)。SS-Fは、科学の進歩が人間の創造性とつながりから生まれるという「People-Centric(人から生まれ、 人とつながり、 人で広がる)」という理念を大切にしています。
連載「Inventor’s Vision」では、比類なき独自の視点と想像力を持ち、野心的な科学研究に挑む「Stellar Inventors(ステラー・インベンター)」と呼ばれる研究者たちに焦点を当てます。彼らが科学に向き合う原動力や人生観、人間的な魅力に迫り、その人となりを通して「People-Centric」な科学の可能性を探っていきます。
第2回でお話を伺ったのは、「Human Germ line(生殖細胞や卵、精子、初期胚発生段階)」などの研究を通して、生命の謎に迫る入江奈緒子(いりえ なおこ)さんです。2024年12月には、ヒト生殖細胞初期発生に関する研究の功績が評価され、日本学術振興会賞を受賞。体外受精などの治療を行う生殖補助医療への活用や、生殖に関する技術発展への貢献など、さまざまな可能性を秘めた研究として注目を集めています。
研究の魅力について、「生命の根源の謎に迫っていることを実感できた時が、最もワクワクする瞬間」と語る入江さん。別の分野を研究したかつての経験や、交換留学での研究者たちとの交流など、さまざまな領域を行き来したことが、思いがけない発見につながってきたと話します。
子どもの頃に抱いたある疑問から、異例とも言える専攻の変更。そして何度断られても諦めず、自ら機会をつかんだイギリスでの研究活動まで、生命の謎に迫る研究者へと至る入江さんの情熱の源泉に迫りました。
『利己的な遺伝子』から受けた「衝撃」
──入江さんのこれまでの道のりについて聞かせてください。子どもの頃は特にどんなことに関心を持っていましたか?
幼い頃から「自然」に惹かれるタイプだったと思います。虫を捕まえるのが好きな子どもでした。幼稚園の庭中のミミズを探して一箇所に集め、しばらくして見に行くとみんないなくなっていることを確認したり。それだけ好きだったのに、大人になると触れなくなるのは不思議ですね(笑)。
あと、中学生の時にDNAを2倍に複製して均等に分けながら細胞が分裂するという話を聞いて「なんでこんなにうまくできているんだろう」と衝撃を受けたのも覚えています。その直後に、DNAをまず半分に分けて、2つの細胞になってから倍に増やすのではダメなんだろうかと、すごく不思議に思っていました。
──ただ、入江さんはただの「興味」で終わらず、研究者になるまでに至ったわけですよね。それはなぜだと思いますか?
研究者になったことと直接関係があるかはわかりませんが、印象に残っている出来事はいくつかあります。たとえば、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』や竹内久美子先生の本を読んだこと。それらの書籍から「生き物は遺伝子、つまりDNAの乗り物だ」という考え方を知って、大きな衝撃を受けたと同時に妙に納得してしまったこと……そこから「じゃあ一番大事な乗り物は何だろう?」と自問して、「生殖細胞なのではないか」と自分なりに考えたことも覚えています。
──入江さんは北里大学理学部の生物科学科に進んだと聞いてますが、その背景にはそんな関心があったのですね。
そうです。ちょうどヒトゲノム計画やES細胞、再生医療などが話題になり、分子生物学が盛り上がっていた時期でもあり、生物科学や分子生物学を学びたいと思っていました。
「研究するなら、謎が深いところをとことんやりたい」
──学部を卒業したあとは、どのような進路を歩んだのでしょうか?
修士課程と博士課程では、骨代謝の研究をしていました。マウスを使って骨を壊す細胞とつくる細胞の、表面分子の相互作用を介したコミュニケーションによる骨の量の調節機構を調べていたのです。骨粗鬆症発症のメカニズムなどにつながる話でした。
その研究で実績を積み博士号を取ったので、一般的にはその後もその道を究めるのが、自然な流れかもしれません。ただ、当時の自分の中で「もっと生命の根幹に迫りたい」という想いがありました。大学の先生に「大学院での研究テーマを生涯の研究テーマと考える必要はない」とアドバイスをいただいて、「博士号を取ったら研究テーマを変えてみようか」と考えていたのも影響していると思います。
何より、「今後研究を続けるなら、謎が深いところをとことんやりたい」と思ったのです。そうした気持ちもあって、博士過程を終えた後に「生殖細胞の研究がしたい」と本格的に考えるようになりました。
──博士号を取った後、研究の方向性をガラリと変えたのですね! 一般的ではない道を選んだからこそ、苦労も多かったのではないでしょうか。
はい、特に最初は壁にぶつかってばかりでした。周囲からは「うまくいかないからやめておいた方がいい」と言われたり、その研究分野に実績がないからと、希望の関連研究室からも門前払いをされてしまったり。そんな中、前出の大学の先生の言葉を思い出し、ちょっと違うなと、空を見上げたこともありました。
するとある日、イギリスのケンブリッジ大学にアジム・スラニ先生という、生殖細胞研究分野の権威ある研究者がいることを知りました。当然のごとく、繋がりは全くなかったのですが、とりあえずメールしてみようと思い立って。そうして連絡してみたのですが、有名で人気の研究室ということもあって当然なかなか返事は来ません。
返事がないのは想定内と、めげずにメールを出し続けたところ、ある日「研究スペースが狭いから新しい研究員は入れられない」という返事が来ました。私は、内容はともかく、返事がいただけたことを嬉しく思い、「大丈夫です。私は体格が大きくありませんから、狭いスペースでも研究ができます」と返したのです。それが功を奏したのかはいまだにわかりませんが、最後はどうにか受け入れてもらうことができました(笑)。このエピソードは後々語り継がれることになります(笑)。
──すごいエピソードですね。普通の人なら諦めてしまいそうです。
よほどしつこいと思われたのかもしれません(笑)。本当にスペースがなかったのか、もしくはイギリス紳士風の断りのメールだったかもしれませんが……生殖細胞の研究をしたいという強い意思はお伝えすることができたような気がします。スペースはそんなにいらないというのも、結構本気でした(笑)。
それから生殖細胞研究のバックグラウンドやネットワークもなかったので、「普通に研究室に受け入れてもらえることはないだろう」とも思っていたから、引き下がらずに粘り続けられたのかもしれません。
とにかくなんとか狭いスペースに入り込んできて、その後じわじわとスペースを広げていったという逸話まで残してきました。それが2011年くらいの出来事でした。
2ヶ月の交換留学がもたらした、思いがけないブレイクスルー
──入江さんの生殖細胞研究にかける情熱がよく伝わってくるエピソードですね! そして2015年の論文では、ヒト生殖細胞の発生における重要因子について報告し、その研究成果が注目を集めました。イギリスにわたって4年ほどで、その成果にたどり着いた。
はい。ただ、最初は苦労の連続でした。日本での研究ではほとんどマウスしか触ったことがなく、研究を始めた当初は研究の基盤となるヒトES細胞の培養自体が全くうまくいきませんでした。
開始から半年ほど経っても、全くと言って良いほど成果が出ない。同じラボにいる人たちは誰もヒトES細胞の培養をやった経験がなく、隣のラボにまで教わりに行ったことを覚えています。
──すぐにうまくいったわけではなかったのですね。その後、ターニングポイントになったと感じる出来事はありましたか?
当時ちょうどスラニ先生からイギリスとイスラエルの共同研究プログラム(The UK-Israel Research and Academic Exchange Partnership; BIRAX)を立ち上げるという話をいただいたのですが、それに迷いなく参加したことが一つの転機になったかもしれません。イスラエルの若くて勢いのある研究者Jacob Hanna博士のグループと共同研究するために、イギリス代表として、2か月ほどイスラエルに滞在しました。
彼らは特殊なES細胞の培養法を確立していて、そこで得た培養法が、私がその後進めた生殖細胞誘導のカギになりました。しかも、彼らはヒトES細胞の培養技術にも非常に長けており、遺伝子操作の極意も学ぶことができた。
そのおかげもあって、それからイギリスに戻って4か月ほどで一気に結果を出すことができました。海外や訪れたことのない場所に行くのがもともと好きでしたが、現地では宗教や軍備に対する距離感など、あまりにも日本ともイギリスとも違うユニークな文化にも触れられたことも貴重な体験となりました。そのような文化的背景の中、さまざまなバックグラウンドを持つ研究者との交流はさらに独特でありながらも、非常に温かく、人生経験と科学的研究の両方に関して私にとっての大きなブレイクスルーになったと感じています。
──2ヶ月の交換留学の経験が、決定的な転機をもたらしたのですね! 2015年に論文を発表されたのち、日本に帰国されたのはなぜでしょうか。
発表後、イギリスのMedical Research Council (MRC)から研究費を獲得することができ、鋭意研究活動を続けていました。しかし、ブレグジットやパンデミックが起こり、イギリス全体の基礎科学研究にさまざまな懸念が生じ、所属研究所全体としても研究費の打ち切りなどもあり、多くの研究者や研究グループが離れていく事態となりました。私自身も、そろそろ次のステップについて考えようと、まずは一時帰国することにしました。
一時帰国中に大学院の母校へ挨拶に訪れた際に、現在所属する研究所の所長、末松誠先生に、偶然お目にかかりました。「慶應義塾大学の医学部から実中研に移るから、一緒にやってみないか」と声をかけていただいたのです。実中研にまだないようなヒトの研究システムを立ち上げてほしいというお話でした。チャレンジングではあるものの非常に重要な任務だと思い、喜んでお受けすることにしました。
──改めて日本で研究をしてみて、イギリスでの研究活動との違いを感じる部分はありますか?
ヒトの初期発生を研究するにはヒトES細胞やヒト由来サンプルを使う必要があるのですが、日本では、これら倫理審査に関して不明瞭な部分が多い印象があります。日本では「ルールがない」イコール「研究をやらない」となる流れがあるように思います。承認を得るのに、同様の研究に関する前例を挙げるのが良いとされることが多く、世界最先端を目指すには難しい状況かもしれません。
イギリスの場合は、「ルールがない」イコール「研究を行うのは自由」と解釈している印象でした。40年以上前のことですが、世界初の”試験管ベイビー”の試みもそのような経緯で実際の治療が行われたと伺い、非常に驚いたのを覚えています。もちろん近年は、イギリスでも、研究倫理に関するルールの整備は進んできていますが、科学者だけでなく倫理の専門家や様々な分野の研究者、科学者でない市民も含めた、話し合いの場が多く設けられ、ルール作りのスピードが非常に早い印象があります。
何億年とかけて受け継がれてきた生命。その謎を追い続けたい
──ここまでのお話を振り返ると、何度断られても諦めない情熱をもって、さまざまなコミュニティの研究者たちとの交流を広げていったことが、入江さんの活動に大きな影響を与えているように感じました。
そうですね。そのうえで、私自身がもともと「骨研究」という異分野にいたこともまた、役に立った点が色々あったと感じています。
たとえば、骨研究で扱った遺伝子が、実は生殖細胞の研究においても重要という発見もこれまでにありました。「これはこういう因子だからこう使える」といった、発想の芽生えにつながったのです。
そういう意味では、一見、困難の多かった道のりと思えた経験も、思わぬ発想の転換につながる可能性を秘めていると実感できた。骨の研究も非常に興味深く、大好きでした。
──途中で研究の方向性を大きく変えたことが、結果として良い結果につながったのですね! 入江さんが研究活動を続ける中で、最も面白いと感じたり、やりがいを覚えたりするのはどのようなことでしょうか?
私が最もこの研究で惹かれるのは、やはり「生命そのものの謎に迫っていると考えられること」だと思います。生殖ラインについて新たな発見を得られたとき、それが何億年もの時間をかけて受け継がれてきた生命の連続性とつながるんだと考えると、すごく壮大な気分になります。
とはいえ日々の研究は地道です。そして、その地道な試行錯誤もまた、とても楽しく魅力的なものです。
たとえば実験で、細胞が赤く光るような仕掛けをつくって、機械で測定することがあります。うまくいくと、スイッチを押すと同時にモニターにパッと色のついた細胞が出てきます。うまく出ないことのほうが多いので、出てきた時はすごくテンションが上がる。そういう毎日の中にある瞬間こそ、ワクワクした気持ちで過ごしたいとも思っています。
──最後に、今後の展望について教えてください。
研究者としては、自身の研究を通じて得られた知識や技術をもとに、有益なテクノロジーの発展に貢献して、それによって幸せを感じる人が増えることにできる限り力を注ぎたいです。たとえば、生殖補助技術などの領域において必要とされる技術を確立し、多くの人がそれを活用できる社会の実現に、貢献できたら嬉しいと思っています。
あとは老後の計画として、世界中の爬虫類や鳥類の卵の殻や植物の種を集めて、形態学的に比較してみたいと思っています。これらは生殖細胞であり、その形は非常に独特で、美しいです。そして、それを理由に世界中を旅したいですね。それが、いま考えている最も大きな楽しみの一つです。その前に種子などの輸出入制限についてよく勉強しないとですが(笑)。
(文:栗村智弘 写真:関口佳代 聞き手・編集:小池真幸)